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ここで鳥肌が立った。今読み返してもやっぱり鳥肌。これは仮面ライダーディケイドじゃないか!
平成仮面ライダーは今や巨大コンテンツだから、ハロヲタのなかにも平成ライダーヲタを兼ねているという人はそんなに少なくないんじゃないかと思う。だからといって多数派とも思えないので、以下、ちょっと説明する。
2000年にTV放送が再開した仮面ライダーシリーズは、現在放送中の「仮面ライダードライブ」で16作目。1971年に初作が始まってすぐ大人気番組になったはいいものの、人気を長く継続させることができず、時折思い出したように復活してはまた眠りにつくというサイクルを繰り返していた昭和時代のシリーズと、一線を画した安定人気を誇っている。商業的にも、完全に東映のドル箱ビジネスとなっている。
その平成シリーズの10作目として世に送り出されたのが「仮面ライダーディケイド」。本作以前の平成ライダーはすべて独自の物語世界をもっており、昭和ライダーによくあった、番組をまたぐクロスオーバー客演はあり得なかった。それを実現させてしまったのがディケイドだったのである。
体裁としては、ディケイドは何故か複数の世界を渡り歩く能力を有しており、意味深そうな人物に意味深に誘われ、各ライダーのいる世界に飛び込む。主人公はその不可思議な成り行きをさほど苦にせず、大概のことを「だいたい判った」で済ませ、何やかやのうちにその世界のライダーと共闘して敵を倒し、一件落着を迎えてはまた次の世界へ赴く。
なんというご都合主義の塊だ--と思ったものだった。それでも、それぞれの仮面ライダーが一年間約50話をかけて描いた物語のエッセンスをたった二話にデフォルメするという試みは面白く、楽しんで観ていたのだった。所詮ディケイドは、10年続いた(厳密には10作目だから満9年なのだが、煩いこといわない)ことのお祝い企画なのだから、過去番組のライダー達の再登場を楽しめばいいのだ、と。実際、「リ・イマジネーション」と名づけられた物語エッセンスの換骨奪胎には優れた成果が多かったし。
ところがディケイドの企画の深淵はそこだけにあったのではなかった。ディケイドは過去のライダーを出演させるためだけのトリガーとして登場したのだが、大団円では、ディケイド自身のレゾンデートルを獲得する。それは「視聴者のあなた方がディケイドの彷徨を見届けてくれて、存在に愛着をもってくれたことが、ディケイドをキャラ立ちさせてくれた。彼は最早、ただのトリガーではない。10人目の平成ライダーと冠されるのに値する存在になった」というものだった。その象徴として、劇中で一度死んだディケイドが、それまでの道程を共にした仲間のライダーに思い出されることにより復活するというシーンがある。これは即ち、「ディケイドがファンの想いで蘇生するのならば、あなたが愛した過去のライダー(当然昭和も含む)だって、もちろんいつだって甦る。甦らせてくれていいんだよ。過去は、忘れ去られるしかないものなどではない」という制作側からのメッセージだといえる。
これは中澤の言葉と完璧に呼応しているじゃないか。
卒業したOGを忘れなくてもいい。推した記憶を封じ込む必要などない。ヲタのなかで、彼女達の輝きは永遠だ。そんなふうに思っていても、ふと、現役メンバーから送り出される豊富な情報量に圧倒され、また夢中になりもし(実に健全なことだ)、ついかつての推しメンを意識から追い出しそうになり--そうした自分を嫌悪しそうになった時。
現メンをごらん。現メンはある日突然そこに現れたのではない。18年の歴史のなかでリモデルを繰り返し、最新版としてイマココにいるのだ。今年の新番組「仮面ライダー・モーニング'15」で毎週悪と戦う、26人目から38人目のヒーローなのだ。彼女らの前には、25人目から1人目に遡る、歴代の先輩がいる。変身ベルトやバイク、複眼といった、仮面ライダーに受け継がれる特徴があるように、モーニング娘。にも何らかのSignがあるのだ。それの存在を確認して、我々は、歴代のメンバーが人間の自由を守ってきたことをいつも思い返す。その時、HEROは甦ってそこにいる。
そのSignが何かって?実際には変身ベルトを装着しないライダーや、バイクに乗らないライダーがいるけどそれをいちいち論うのが野暮であるのと同じように、答は「魂ですよ」という程度の抽象でいいだろう。ヲタ各人が心中に見い出せばそれで十分だ。
ディケイドのキャッチコピーは「すべてを破壊し、すべてをつなげ!」というものだった。毎年始まる新しいモーニング娘。も、すべてを破壊し、すべてをつないで、ココにいる。彼女らがステージに出る直前に叫ぶ気合入れの言葉「いきまっしょい!」が、しばらくは「変身!」に聞こえることになりそうだ。